何が必需品かを決めるのは国家の役割では無い

タイトルは言うまでも無く、今話題のピケティ教授の名言「名誉ある人間が誰かを決めるのは国家の役割では無い」のパクリです。言いたいことは、以前のエントリ 

軽減税率という愚策

http://hikokumin1.hatenablog.com/entry/2014/12/15/195319
で述べたことと全く同じです。ピケティ先生の勲章辞退を聞き、何となく頭に浮かんだフレーズをそのま書いてみました。

それにしても、「安倍政権支持が社是」である読売・産経はともかくとして、毎日新聞までが軽減税率賛成に回っているのを見ると、左寄りを自覚する人間としては大変悲しくなります。ハッキリ言いますが、リベラルを自称する者が軽減税率を求めるなど自己矛盾以外の何物でもないからです。

国家による必需品の指定は、言うまでもなく、国家による標準的な生き方の指定と同値です。卑しくもリベラルを自称するマスコミが、如何に経営が苦しいとはいえ国家による束縛を自分たちから求めてどうするのでしょうか?

残念ながら、新聞は少々長生きし過ぎてしまったのかもしれません




大学入試改革に期待すること

大学入試制度が大幅に変わる。一言でいえば、これまでの学力重視型から人間力を重視した選考に変更されるそうだ。

この改革に対する批判の声は強い。もちろん私も大反対だ。この改革がどんな結果を招くかは、医学部入試の現状を見ればすぐに分かる。現在、既に面接試験が導入されている医学部の入試状況を少しでも知っている人なら分かることだが、とても公正な選抜とは言えない状況が発生している。例えば、一定年齢以上の者を無条件で落としたり、高校中退者(高認合格者)に対する露骨な差別などが平気でまかり通っている。一応は難しくて公平な筆記試験が存在している医学部の受験ですらそうなのだ。ましてや従来の筆記試験を止めて面接試験を導入した日には、著しい不平等が生じるのは火を見るよりも明らかだろう。このような改革は、絶対にやめるべきだと私は思う。

それでも改革は実行される。日本社会はこうして、北朝鮮に近づいていくのだろう。20xx年、我らが敬愛する安倍晋三首相が、抜群の人間力により念願の東大合格を果たして咽び泣く勇姿を目撃できるかもしれない。2600年に渡る尊い血統をお持ちの皇族の皆様方は、その卓越した人間力によって、面接室に入った瞬間に合格となるのだろう。あ、それは去年に実現してるか、と言ったら怒られるか。



…また皮肉になってしまった。本当は期待することを書こうと思ったのだが、長くなるので次回書きます。

下は今回取り上げようと思った本。

不平等社会日本―さよなら総中流 (中公新書)

不平等社会日本―さよなら総中流 (中公新書)


中山金杯予想 ロゴタイプ復活なるか

有馬記念は残念だったが、気持ちを切り替えて2015年の競馬に取り組んでいきたい。まずは東の金杯から。大勝負は出来ないが、ここをしっかりと当てて勢いをつけたい。

中山金杯予想

マイネルミラノ
△ラブリーデイ

根拠

私の本命は、ロゴタイプだ。皐月賞以来勝ち星がなく衰えがあるのは否定出来ないが、G3ならまだ格上と見る。前走も相手なりには来ており、走る気をなくしているわけでは無い。メンバーが弱化する今回、能力的には負け目は無い。デムーロに戻るのも大きな魅力だ。G1を勝った中山競馬場で久々の勝利を挙げ、今年の中距離路線を盛り上げてほしい。対抗はマイネルフロスト。ダービー3着は出来過ぎだが、王道路線でもそれなりに善戦しており、メンバーの割に人気の盲点になっている感がある。調子落ちがなければ上位に食い込む可能性は高い。上がり馬のマイネルミラノを▲、外人騎手に乗り替わるラブリーデイを△に押す。

逆に消したいのはラブイズブーシェ、メイショウナルトの2頭。前者はおそらく過剰人気。G1で流れ込んで上位に入ってはいるが、力上位とはいえない。後者は夏馬の上、ピークは過ぎていると見る。ともに無印としたい。

箱根駅伝雑感 「大勝利」の大見出しが紙面を飾る日


  • 我らが創価大学は、残念ながら最下位に終わった。トップから40分遅れという結果は、大惨敗と言わねばなるまい。予選会最下位突破ということもあり戦前から苦戦が予想されていたが、その通りの結果になってしまった。信心が足りなかったか…という冗談に逃げ込まずに原因を考えると、スタートの失敗が全てだろう。エースの山口選手を1区に持って来ての13位スタートでは、この結果も止むを得ない。
  • ただし、1度箱根に登場した大学は、今後選手のリクルーティングが捗ることが多い(この大学は些か特殊なので分からないが…)ので、将来的には強豪チームになる可能性がある。もちろん、1度出たきりで消えてしまった大学も多いが、この大学には⚪︎⚪︎学会(一応伏せ字)をバックにした圧倒的な財力がある。過度の楽観(?)は禁物だが、1月4日付けの聖教新聞「大勝利」の大見出しが出るのは、そう遠くないのかもしれない。
  • 今年は幸い全チームが走り抜いたが、往路で駒澤、復路で中央にアクシデントがあり、いずれも順位を大きく落とした。それ自体は残念なことだが、駅伝には付き物のことであり、決して選手の責任ではない。社会に出て始めて知ったが、世の中には、学生スポーツの結果に異常に拘るOBという誠に厄介な人々が存在する。当該選手が今後、嫌な目に遭わないか心配だ。
  • 大会は、青山学院が圧勝した。確かに戦力も強かったが、それでも10分以上も差をつける程には突出していなかっただろう。往路の快進撃が好循環につぐ好循環を呼んだのだろうか。私はプロ野球の解説などで「試合の流れ」を語る解説者を軽蔑していたが、ひょっとすると、流れという物は、本当に存在するのかもしれない。それとも、人はこうして愚かになっていくのだろうか。今後の研究課題としたい(大げさ)

「希望は戦争」を読んで考えた3

次に悪質なのが、「クビが飛んでも動いてみせる。それがフリーターに与えられた自由ではないですか」(鎌田慧)という、現状に甘んじて沈黙せよとは言わないまでも、我々はその手伝いをするつもりはない、勝手にやれという突き放した言論である。赤木が反論しているように、フリーターに代表される弱者は、そもそも闘うための社会的基盤を全く欠いた存在である。「クビが飛んで」しまえばたちまち生活に困窮する彼らに与えられた自由とは、一体何だろうか?彼らの主張は、小泉政権下で構造改革を進め、リベラル知識人が事あるごとに批判する経済学者竹中平蔵の持論「若者には貧しくなる自由がある」と全く同じではないのか?よもやフリーターを「自由な働き方をしている人」と勘違いしている訳ではないだろうが、弱者の味方を自称するにしては、赤木らの置かれた状況に対しての理解が余りにも不足しているのではないだろうか。

以上は、反論する価値の無い論外の主張であるが、赤木の主張に対しては、他にも様々な反論が寄せられているが、残念なが、本人を納得させるものは一つもなかったようだ。次節では、その他の知識人の反応とそれに対する赤木の反論を取り上げ、そこから見える赤木の持つ思想の特徴について検討して行きたい。

4.「99%」という幻想
「俺たちは99%だ❗️」
アメリカで数年前に始まった、通称「ウォール街占拠デモ」でよく使われたアジテーションである。「99%」とは言わないまでもなく、社会的地位の下から99%を指す。このフレーズから規定されるデモの性格は、もちろん階級闘争しかない。大多数の貧しい人々が手を取り合い、ウォール街に象徴される特権階級と対峙する。この運動の盛り上がりには、赤木のような立場にある者にとっては一見、希望に見える。実際、「大多数の連帯」に希望を見出す言説も多い。時期こそ前後するが、若松孝二(2012年死去)はフランスで行われた若者たちによるデモを引き合いに出しながら、「お前たちも、立ち上がれ」と呼びかける。

次回に続く

下は赤木さんと同じく「ロスジェネ」世代の作家、雨宮処凛さんの著書。一貫して弱者の立場から社会問題を鋭く斬っています。深刻な話題も文章力で上手くカバー。重い問題を軽ーく読むことができる、大変お勧めの本です。

生きさせろ!難民化する若者たち (ちくま文庫)

生きさせろ!難民化する若者たち (ちくま文庫)




「希望は戦争」を読んで考えた2

  3.敗北する知識人
何故勝ち目がないのか?それは、論文の著者である赤木が、「31歳、フリーター」という属性を持つ紛れもない「弱者」であり、リベラル知識人たちが主張の旗頭にしている救済すべき弱者そのものだからである。寄り添うべき対象にはっきりと拒絶されてしまっては、いかなる説得力ある反論もまるで意味を持たない。救済相手の意に反した救済など、あり得ないからだ。

余談だが、あり得ないことをあくまでやろうとした場合、主張の奥底に潜んでいる矛盾が表に出てしまうので、大抵は悲惨な結末になる。(リベラル知識人とは)思想的に正反対だが、売名狙いで弱者救済に向かった人々が思わず見せた、実に醜悪な姿が映っている動画がある。本題ではないが、一応貼っておこう。


…感想は読者自身にお任せするが、偽善って怖いね。閑話休題。本題に戻ろう。構造的に勝ち目がないという悪条件に関わらず、多くの知識人は、この論文に否定的な反応を示した。その「勇気」は称えられるべきだが、肝心要の反論の質そのものは、当時高校生だった私から見ても誠に残念なものであった。知識人たちの反論が書かれた「論座」が生憎なことに私の手元に無いので、引用は赤木の再反論『けっきょく、自己責任ですか』から孫引きするが、左寄りを自覚している私でも、彼らが発する説得力皆無の言説に改めて触れるのは辛かった。総合的には勝ち目が無いにしても、せめて論理性では知識人の意地を見せて欲しかった。下は赤木の再反論である。

まず最悪なのは、「もっと苦しんでる人がいるのだから我慢しろ」という説教をしてしまう人々である。「(40代以上も)決してぬくぬくしちゃいないのです」(奥谷紀晴)や「何も持っていないというが、命はもっているのである」(佐高信)などの反論がこれに当たる。苦しみを訴える人に対して、全く別の存在を持ち出してその口を塞ごうとする点では、曾野綾子氏あたりがよく主張する「アフリカに比べれば日本に貧困など無い」と同レベルの議論であるが、一貫して日本の弱者に冷淡な曾野氏の方が、言論に対する責任という点では遥かに誠実と言えるだろう。

彼らには、赤木の苦しみが見えないのか?それとも、直視すると自らの言論の欺瞞さが明らかになるから、あえて見ようとしないのか?どちらにしても、言論人失格である。私は、彼らの主張そのものには到底納得できないが、彼らの主張を聞いて、日本でリベラルが衰退した理由ははっきりと分かった。「貴方たちの議論を聞いて、とても大事なことが分かった。本当にありがとう❗️」赤木ではないが、こんな皮肉の一つも言いたくなる。左の側でこんな言論が大手を振るっている現状では、巷で言われる「若者の右傾化」も、やむを得ないところだろう。

次回に続く

下は赤木さんの2冊目の著書。「希望は、戦争」の発表によってフリーライターに昇格(?)した赤木さんがネットサイトなどに連載したコラムが入っています。

「当たり前」をひっぱたく

「当たり前」をひっぱたく

ニューイヤー駅伝に思う、マスコミの「演出力」

追記  ニューイヤー駅伝そのものの演出については論じていないので、タイトルはやや羊頭狗肉気味です。すいません。

ここ数年、お正月は駅伝を見て過ごすのが日課となっている。1日に実業団の大会、2・3日に大学生の大会が開かれているので、駅伝を見終えると正月もあらかた終わり、というのを毎年繰り返している。少し勿体ない時間の使い方だが、年に1度の正月だから、まあ、こんなものだろう。

ところで皆様は、ニューイヤー駅伝箱根駅伝、どちらが好きだろうか?視聴率では後者の方がずっと高いが、私は、前者の方が好みだ。レベル自体は社会人の方が明らかに高いのに、学生駅伝が人気なのは、箱根には、育つ楽しみがあるからであろう。実際、箱根で「育った」選手が、ニューイヤーにも登場し、活躍すると大会が盛り上がるのは確かだ。

学生大会の恩恵をプロが受けているという点では、プロ野球と甲子園の関係に似ている。野球界もまた、プロ野球の視聴率低下による地上波放送の消滅傾向に歯止めが掛からないのに対して、高校野球は全試合完全生中継が今でも維持されている。競技レベルを高めることと商業的な成功は必ずしも結びつかないという好例だ。野球界では、数少ない地上波放映日には、視聴率を少しでも上げるために涙ぐましい努力がなされる。彼らの「企業努力」は多くの場合、競技そのものにはあまり興味のない人々に向けられる傾向がある。例えば野球の場合、副音声に野球に詳しい人気アイドルを起用して解説させることで、ミーハーなファンの獲得を目指している。もちろんこの場合「野球に詳しい」というのは、解説に呼ぶためのイクスキューズであり、真の目的は人気アイドルの声にあることはいうまでも無い。

さて、こうした施策は多くの場合、コアなファンには不評である。確かに、ボクシングの某一家のように、競技そのものを愚弄し価値を貶めるようなのは論外である(この場合、某一家よりもTBSの方が責任が大きいだろう)が、そうではなくあくまでも競技を盛り上げようとする「演出」の範囲にとどまる限り、大目に見ても良いのでは無いか。企業努力は多くの場合、徒労に終わるが、少しでも結果が出ればその分だけ、熱心なファンも競技を楽しむことができるからだ。