「希望は戦争」を読んで考えた2

  3.敗北する知識人
何故勝ち目がないのか?それは、論文の著者である赤木が、「31歳、フリーター」という属性を持つ紛れもない「弱者」であり、リベラル知識人たちが主張の旗頭にしている救済すべき弱者そのものだからである。寄り添うべき対象にはっきりと拒絶されてしまっては、いかなる説得力ある反論もまるで意味を持たない。救済相手の意に反した救済など、あり得ないからだ。

余談だが、あり得ないことをあくまでやろうとした場合、主張の奥底に潜んでいる矛盾が表に出てしまうので、大抵は悲惨な結末になる。(リベラル知識人とは)思想的に正反対だが、売名狙いで弱者救済に向かった人々が思わず見せた、実に醜悪な姿が映っている動画がある。本題ではないが、一応貼っておこう。


…感想は読者自身にお任せするが、偽善って怖いね。閑話休題。本題に戻ろう。構造的に勝ち目がないという悪条件に関わらず、多くの知識人は、この論文に否定的な反応を示した。その「勇気」は称えられるべきだが、肝心要の反論の質そのものは、当時高校生だった私から見ても誠に残念なものであった。知識人たちの反論が書かれた「論座」が生憎なことに私の手元に無いので、引用は赤木の再反論『けっきょく、自己責任ですか』から孫引きするが、左寄りを自覚している私でも、彼らが発する説得力皆無の言説に改めて触れるのは辛かった。総合的には勝ち目が無いにしても、せめて論理性では知識人の意地を見せて欲しかった。下は赤木の再反論である。

まず最悪なのは、「もっと苦しんでる人がいるのだから我慢しろ」という説教をしてしまう人々である。「(40代以上も)決してぬくぬくしちゃいないのです」(奥谷紀晴)や「何も持っていないというが、命はもっているのである」(佐高信)などの反論がこれに当たる。苦しみを訴える人に対して、全く別の存在を持ち出してその口を塞ごうとする点では、曾野綾子氏あたりがよく主張する「アフリカに比べれば日本に貧困など無い」と同レベルの議論であるが、一貫して日本の弱者に冷淡な曾野氏の方が、言論に対する責任という点では遥かに誠実と言えるだろう。

彼らには、赤木の苦しみが見えないのか?それとも、直視すると自らの言論の欺瞞さが明らかになるから、あえて見ようとしないのか?どちらにしても、言論人失格である。私は、彼らの主張そのものには到底納得できないが、彼らの主張を聞いて、日本でリベラルが衰退した理由ははっきりと分かった。「貴方たちの議論を聞いて、とても大事なことが分かった。本当にありがとう❗️」赤木ではないが、こんな皮肉の一つも言いたくなる。左の側でこんな言論が大手を振るっている現状では、巷で言われる「若者の右傾化」も、やむを得ないところだろう。

次回に続く

下は赤木さんの2冊目の著書。「希望は、戦争」の発表によってフリーライターに昇格(?)した赤木さんがネットサイトなどに連載したコラムが入っています。

「当たり前」をひっぱたく

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