落ちこぼれた若者が「希望は戦争」を読んで考えたこと
1.「希望は、戦争」の背景
赤木さんの論文「希望は、戦争」が、朝日新聞社がかつて発行していた論壇誌『論座』(2008年休刊)に掲載されたのは、2006年暮れのことだった。(wikiで確認したら07年1月号だった)当時高校生だった私は、リアルタイムでこの文書を読んだ、恐らく数少ない未成年者の一人だったと思う。赤木論文は、発表されるとたちまち大きな話題になった。私見だが、一時期の論壇は間違いなく、この論文が席巻していたほどであった。
論文全体がネットに上がっているので、貼っておこう。まだの方はとりあえず読んで欲しい。
http://t-job.vis.ne.jp/base/maruyama.html
この論文が、大きな反響を呼んだ背景として、「フリーター自身が主体となって、論文という形で世間にモノ申した」という点が、まずあげられるだろう。今でもそうだが、彼が声をあげた当時、論文というのは一部の特別な人たちのためにあると思われていた。論文とは、研究者などの数少ない専門の知的トレーニングを受けた人々が、学術的な知識に基づいて書くものであり、そこに登場するフリーターは、あくまで材料に過ぎなかった。学者や評論家などの比較的恵まれた立場の人々に、蔑まれたり憐れまれたりする役回りで登場するのが関の山であった。有閑階級の暇潰しのオモチャにされていた側面があると表現しても、決して被害妄想とは言えまい。この状況に対して、ある程度敏感なフリーターならば、相当な屈辱を感じていたはずだ。
2.論文の持つ意外性と凶暴性
沈黙するフリーター。モノ言わぬはずの彼らの一人が、突然、世間に対して自己主張を始めたのだから、意外性は大きかった。しかもその主張たるや「希望は、戦争」という、(高齢者ほど強く持つ)伝統的な日本人の価値観を、完全に逆撫でするものであった。物言わぬはずの赤ん坊が、ある日突然起き出して、凶暴な言葉を次々と叫び出すようなものだ。これで周囲が混乱しないはずがない。しかも始末の悪いことにはこの赤ん坊、赤ん坊の癖に挑発も実に上手いのである。
論文の中で赤木は、弱者の味方を気取る「リベラル知識人」たちが、如何に偽善に満ちた存在であり、如何に社会にとって有害な存在であるのかを淡々と説明していく。乾いた文体もさることながら、自らの置かれた不幸な立場について繰り返し記述しながら、主張を展開しているのがまた巧い。前述の通り、この論文が掲載された雑誌には「リベラル知識人」たちの反論も後に掲載されるのだが、赤木がこの戦略を用いた時点で勝負ありである。たとえ彼らが如何に説得力を持つ反論をしたとしても、実は、赤木の議論に対しての勝ち目は全く無い。高学歴のリベラル知識人が何人束になっても、たった一人のフリーターに対しては、最初から敗北が決定しているのである。
次回に続く。
http://hikokumin1.hatenablog.com/entry/2015/01/02/082116 「希望は戦争」を読んで考えた2
下の本は、赤木さん始めての著書。デビュー作『希望は、戦争』とリベラル知識人への再反論『結局、自己責任ですか』の2本の論文が載っています。この論文が書かれるに至った事情や論文発表の後日談、赤木さん自身の生い立ちにも簡単に触れられており、結構お勧めです。ただし、論文同様かなりの毒を含んでいる本なので、読み始める際のコンディションには、少しだけ注意が必要かもしれません。
- 作者: 赤木智弘
- 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
- 発売日: 2011/05/06
- メディア: 文庫
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