ブラック企業は増殖する

ブラック企業問題は「嫌なら辞めればいい」という個人的な問題では断じてない。また、自分の職場はブラックではないから関係ないという態度も正しくない。なぜなら、ブラック企業は増殖するからだ。少なくとも短中期的には、ブラック企業の経営は強い。マトモな会社がブラックと正面から戦えば、違法行為によってコストを削減している分だけブラック企業は有利で、ホワイト企業は大体負ける。この状態を放置しておくと、ホワイト企業が淘汰され、ブラック企業だけが生き残る。介護や外食などの一部業界では、既にそのような状態が実現してしまっている。早急に対策が必要だ。

ブラック企業 日本を食いつぶす妖怪 (文春新書)

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植村隆元記者の雇用継続について

北星学園大学は、非常勤講師として雇っている例の元朝日新聞記者、植村隆氏を来年度も雇用するようだ。

私は、慰安婦問題に関して、彼の責任は軽くないと考えているが、それは言論で追及していくべきであり、無論、脅迫という卑劣な手段を用いるべきではない。その意味では、今回の大学が下した判断は、妥当なところだろう。

ただ、今月発売の『文藝春秋』に載っている彼の手記を読むと、彼は元々、今年の4月から神戸松蔭女子学院大学の教授就任が決まっていたようだ。それが、ネットの抗議などによって、白紙にされてしまったのだが、この時に、もっと雇用契約の継続を強く主張すればよかったのではと個人的には思う。

正教授と非常勤講師では身分保証の固さがまるで違う。あの時戦っていれば、恐らく彼は勝てただろうし、一旦教授になってしまえば、簡単にはクビにならない。下世話な話だが、給料も全く違う。もちろん、今起きている雇い止め問題など、起きるはずもない。あらゆる面で、彼にとって望ましい結果になっていたはずだ。余計なお世話かもしれないが。

お国の一億円よりも、自分の百円が大切だ❗️

当たり前だが、「国家」は生き物ではない。国民が国家に対して奉仕したり、あるいは裏切ったとしても、「国家」が無生物である以上、それ自体が喜んだり悲しんだりすることはない。喜んだり悲しんだりするのは、「国家」の中の人間であり、それは多くの場合、「国家」を支配する一部の権力者である。

「会社」もまた同様で、「会社の為に」というキーワードは多くの場合、会社に寄生する一部の人間のために使われることが多い。この事実に気づかずに、「国家や会社の為に」行動した結果、人生を棒に振ることになった人は数え切れない。

もし貴方が、国家や会社といった無生物に対する無償の貢献を求められたときには、貴方の貢献によって生まれた成果を受け取るのが、果たしてどの生き物であるかを知っておいた方がよい。貴方がその要求を受け入れるかどうかは、「顔」の正体を知った後で、ゆっくりと考えればいいのだ。

愛国者は信用できるか (講談社現代新書)

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朝日新聞社の面接

朝日新聞の面接を受けたときの話をしよう。この話は、あまり長くならない。一次面接で死んだからだ。試験の手応えは全く無かったので、落ちてもあまり傷つかなかった。同時に、あまりにも惜しくない負け方をしたので、予定していた秋採用の受験は見送った。今考えても、正しい判断だったと思う。

試験は、6人による1時間程度のグループディスカッションと、15分程度の面接の2本立てで実施された。GDのテーマは「オリンピックの東京誘致に賛成か反対か」だった。確か、私は反対の立場から意見を述べたはずだが、具体的に何を喋ったかは、よく覚えていない。ただ、自己採点では、出来は悪くなかった。少なくとも、通過への望みは繋がったと考えて、悪くない気分で面接へと進んだ。

「ええて、失礼ですが、あなたの大学はどちらですか?」ミナミジマさんという面接官が発した第一声では、確かに失礼なものだった。大学?私はしばし考えた。前もって提出した3ページにわたる履歴書は、参考資料として面接官が所持しており、もちろん、そこには大学名が書かれている。履歴書なのだから当然だ。ひょっとしてこの人は、「お前の通う大学などマイナー過ぎて知らんわい」と暗に言ってるのか?もしそうならば、彼はのっけから私に喧嘩を売っていることになる。その場合、面接結果の如何に関わらず、合格の目はまず無いと言っていいだろう。

どうせダメなら、いっそのことキレてやろうか。一瞬、そう考えもしたが、ここまでやって来たのに、それも拙い。私は必死で他の理由を探し、ある仮説をひねり出した。私が捻り出した仮説は以下の通りである。

朝日新聞社は、採用に際して学歴不問を謳っている。実際に不問だとは思えないが、それでも、一応は面接官が先入観をもたないような配慮が成されているのではないか。具体的には、受験者の出身大学は、面接官に伏せた上で行なわれるのではないか。ただ、出身大学を記した履歴書は、面接官の手元にある。そこで私はピンと来た。おそらく、履歴書の出身大学の欄は、事前にバイトか何かに黒塗りさせているのだろう。だが、削っているのは大学欄のみであって、学部のところは残しているのではないか。わたしの属する学部は、かなり特殊な名前であったが為に、悪い意味で目立ってしまったに違いない。

もっとも、目立つこと自体は悪いことではない。仮に、私の履歴書の塗り残し部分に書かれていたのが、例えば「文科1類」などであったら、私は面接官の最初の問いに、自信を持って答えることが出来たかもしれない。だが生憎、私が属しているのは文科1類ではなくて、「都市教養学部」であった。答えたくない。でも、答えねばならない。

私の決死の告白に対するミナミジマ面接官の反応は、「あっなるほどね…いや、都市教養学部ってのが、何なのか気になってさ…」という連れないものだった。私の仮説はどうやら当たっているらしいのは分かったが、面接開始30秒ほどで、同社とのご縁が無くなりつつあるのも分かった。面接はその後10分少々続いたが、私にとっては既に消化試合だった。夕方、試験を終えて会場を後にするとき、ようやく試験の実感が湧いてきた。築地のこのビルにも、恐らく二度と来ることはないのだと思うと、不覚にも涙があふれてきた。

数日後、メールで試験結果を知らされた。予想通り不合格だったが、既に、私の中では終わっていたことだったので、何とも思わなかった。やはり、朝日新聞社を目指す私の戦いは、面接の最初の1分弱で、事実上おわっていたのだ。そして、あの日の夕方、涙とともに感じた予感は、これまでのところ、完全に的中している。

就活のバカヤロー (光文社新書)

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社会保障の復活で、ブラック企業は退治できる

 ブラック企業をなくすためには、どのような政策が有効なのか。結論から言います。生活保護を受けやすくする。ズバリ、この道しかありません❗️以下、その理由を説明します。

そもそも、なぜブラック企業で働く人がいるのか。「そんなに嫌なら辞めればいいのに」という人がいますが、その通りです。違法行為まかり通る会社などさっさと辞めて、次を探せばよいのです。もし、「次」が見つからず、お金もなくなったならば、その時は、本人の意図せざる失業(非自発的失業)なのですから、何も遠慮することはなく堂々と、福祉のお世話になればいいのです。そして、社会保障を受けながら、必要に応じて職業訓練等で能力(人的資本)を高めつつ、じっくりとマトモな条件の仕事をさがせばよいのです。これこそが、社会保障の本来あるべき姿でしょう。

しかし、現実は違います。我が国の生活保護は、堂々と受給できるにはほど遠い。何しろ、生活保護の補足率が1割台の国です。申請すれば、本来貰えるはずのお金を、8割以上の人が、あえて受け取っていないのです。彼らの多くは、生活保護の対象になる人ですから、比較的貧しいはずであるにもかかわらずです。生活保護の受給が、いかに困難であるかを示す証明と言えるでしょう。

ブラック企業がのさばるのも、社会保障の弱さのせいです。所謂新自由主義者たちは、「自らの意思で働いている」ことを理由に、ブラック企業の存在を正当化します。自らの意思で働いていること自体は、多くの場合、事実ですが、彼らは、本来なければいけない社会保障が、現状、全く機能していないという特殊条件を、卑怯にも無視して議論を進めています。社会保障の機能不全は、言うまでもなく、ブラック企業を含む雇い手側に大きく有利に働きます。ゲームのルールが、「クビになっても社会保障」から「クビになったら餓死・ホームレス」に変化するのですから、当然、働く側の交渉力は下がり、労働条件もそれに従って下がります。今行われているのは、ルールが雇い手側に有利に不当に歪んでいる、不公平なゲームなのです。

もうお分かりでしょう。ブラック企業の労働者が辞めないのは、労働条件に満足しているからではなく、ブラック企業の労働条件でも(餓死やホームレスに比べれば)ましであると思っているからに過ぎません。「自らの意思で働くことを選んで」いるのは、表面的には事実ですが、このような状況を、「自由な選択の結果」と言い切ってしまって、本当にいいのでしょうか?我が国の社会保障ラインは、いつからホームレスの生活レベルまで下がってしまったのでしょうか?もちろん、よいはずありません。

我々は、本当の意味で「日本を取り戻す」必要があります。不当に歪んだルールを是正し、公正な条件下でのゲームを復活させる。たったこれだけで、多くのブラック企業労働者が救われる。同時に、現状の、社会保障から溢れてしまう人も救うこともできる。大事なのは、やるかやらないかであり、決断するのは、もちろん国民です。

格差社会―何が問題なのか (岩波新書)

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悪夢のうんこ投げ競争システム

「うんこ投げコンテストの優勝者は、うんこを一番遠くへ飛ばした人ではなく、一番手を汚さなかった人である」という言葉がある。小説家のスティーブン・キング氏が言ったらしいが、中々面白い例えだ。この話の意味するところは明らかで、バカバカしい競争には参加しないのが一番ましだということだが、現実には、この競技は人気種目で、今日もたくさんの人が、少しでもうんこを遠くに飛ばそうと、ときには命懸けで挑戦している。くれぐれも、体には気をつけて欲しい。

新聞業界にも、実に多種多様なうんこ投げ競技があり、盛んに行われている。最も参加者が多いのは、「サツ回り」という競技だろう。ご存じない方の為に説明すると、サツ回りとは、担当する警察官のもとに、昼夜を問わずしつこく通って、彼らの捜査情報のおこぼれを得ようとする行為である。新聞記者は、記者人生の最初に、大体これをやらされる。(幸か不幸か、私は経験しなかった。そこにすら辿り着く前に、脱落したのだ。ああ情けない。)ひどい場合は、一生やらされることもある。

この競技は実に過酷で、毎日毎日、ライバルたちとの容赦のない競争にさらされる。もし、あなたのライバルが、貴方よりも良い記録をだせば、貴方はたちまちデスクから呼び出され、耐え難い言葉の暴力を受ける。「言葉」がつかないことも、結構ある。逆に、素晴らしい記録を出したとしても、社外の人は誰も貴方を褒めないし、会社の利益も増えない。3日もすれば新たなゲームが始まって、容赦なく追い立てられる。アスリートと違っって、適度な休養をとることも出来ない。なんでこんなに熱心なのか?それは、新聞記者が、特別にうんこ好きだからではなく(そういう人も、中にはいるかもしれない) この競技に、マジで生活がかかっているからである。

通常、うんこ投げコンテストに賞金はない。選手がうんこを投げる姿に、わざわざ金を払おうとする観客はいないので、それも仕方のないところだ。彼らの多くは、純粋に名誉の為に戦っているが、新聞記者は違う。うんこ投げの勝ち負けで、将来のほとんどが決まるのである。新聞社は、うんこ投げ競技の数少ないスポンサーとして、優秀な競技者に高額な収入を支給し、競技へのモチベーションを(無駄に)引き上げている。原資はもちろん、読者からの購読料と広告収入だ。新聞の危機が叫ばれ続けて久しい中、いい加減、スポンサーを降りるべきだと思うのだが、そんな気配はまるでない。

これは、本当に理解に苦しむ。相変わらず、うんこ投げを頑張った人だけが、高い地位に着けるシステムが維持されている。この競技は、無益どころか有害であり、競技中の殉職者が後を絶たない悪夢のシステムである。少なくとも私は、うんこを投げながら死にたくはない。もうそろそろ、やめるべきではないか。

ヤバい経済学 [増補改訂版]

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軽減税率という愚策

軽減税率導入は、愚策である。私はこの制度に、はっきりと反対する。理由は後述するが、これほど不公平かつ非効率な政策は、中々あるものではない。絶対に、実現してはいけない。

自民党圧勝の影に隠れたが、今回の選挙では、公明党も着実に議席を増やした。彼らの選挙スローガンは、「今こそ、軽減税率実現へ」である。公明党が政権与党である以上、この政策は、近い将来、本当に実現してしまうかもしれない。だが、ちょっと待ってほしい。本当に、それでいいのか?

軽減税率に関して、よく議論になっているのは、どの商品を、軽減税率の対象にするかという点である。私の(一応)属する新聞業界は、新聞を軽減税率の対象にしてもらおうと、露骨なロビイング活動を行っている。いつもは新聞を批判する週刊誌も、雑誌を軽減税率の対象にして欲しいので、沈黙している。文化ファッショとしか言いようがない。こんなことをして一時的な利益を得ても、中長期的には、必ず消費者に見放される。いい加減、やめるべきだ。

新聞社が、自らの商品への軽減税率導入を主張していることに対して、ネット上などでは、批判の声は強い。大手メディアにおいて、事実上制限されている意見がどんどん表に出るのは、言うまでもなく、健全なことだ。ただ、ネットでよく見られる主張は「新聞は必需品では無いので、軽減税率を適用するべきではない」という趣旨のものである。新聞が今や必需品では無い、というのは全く同感である。大体、需要がなくてどんどん部数が減ってるのに、「新聞は必需品だから税率を軽減すべし」なんてよく言えたものだと思う。聞いてください!新聞への消費税軽減税率適用のこと|日本新聞協会のような戯言は、一切無視して良い。

私がネット上の多くの意見と違うのは、新聞以外の、食料品などあらゆる商品に対しての税率軽減に反対であるという点である。つまり、軽減税率という制度自体を導入するべきではないと考えている。その理由は2つある。

第一に、何が必需品なのかを、完全に客観的に判断するのは、困難だという点である。困難というより、不可能だろう。結局、一部の人たちが、何が軽減税率の適用商品になるかを、主観的に決めることになり、当然そこには、新たな利権が発生する。(軽減税率の適用は、適用企業にとっては補助金と同じ意味をもつことに注意)我が国においては、毎度おなじみの展開だが、それをまたもや繰り返してしまっていいのだろうか?

第二に、軽減税率の導入は、本来自由であるべきの個人のライフスタイルが、事実上、ある方向に歪められてしまう点である。例えば、食料品のみを軽減税率商品に選んだとしよう。世の中には、様々なライフスタイルがあり、安アパートに住んで美食に励む人もいれば、カップラーメンを食べて高級車に乗る人もいる。生き方に、本来優劣などないはずである。しかし、この場合、前者の人は得をし、後者の人は損をすることになる。この損得を、正当化する理由はあるだろうか。少なくとも、私には思いつかない。国家権力が、後者の人に、前者のライフスタイルを推奨することになる。そんなことをする権利が、果たして国家にあるのだろうか?あるわけがない。どのような生き方を送るのかは、もちろん個人の自由だ。格差是正が目的であれば、国民全員に現金を支給すればいい。その上で、何が必需品なのかは、国民それぞれが判断すればよいのではないだろうか。